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主体的に生きる

 人は社会の中に生きている。社会とは人が集まり、何かしらの共通の規範に基づいて行動すること。法律とか条令とかの明文化された規範と、マナーとか習慣や慣習といった暗黙の了解...様々な規範が存在する。またある時ある場面で、そこにいる人達の中だけでの規範が作られていき、それに従って行動するということもある。しかし全ての事柄について全ての関与者の合意が確認されることなどはほとんど無く、お互いが暗黙の了解のうえで行動しているのが現実。すると確認していなかったことや確認できなかったことについてお互いの認識の違いが明らかになった時点で、その場のバランスが崩れて不信感が生まれ、時には争いも起こる。お互いがお互いの認識で動くのだから、そこに絡む人が多ければ多いほど、その認識がずれる可能性が高くなる。社会とはそういうものなのだ。
 日々暮らしていると様々なストレスを感じる。そのほとんどは、自分がしたいと思っていることと実際に出来ること、あるいはしなければならないこととの相違に起因していると思う。まだ寝ていたいのに何かのために起きなければならない。本当に時部の意思で寝たい時に寝て、起きたい時に起きていたら社会生活など営むことはできない。自分が欲しいものがあるのに買うお金が無い。そのストレスを解消するための手段は、買うためのお金を稼ぐか買うのを我慢するかのいずれかだろう。ところが人によっては買うためのお金を他者から奪ってみたり、もっと手っ取り早く、その物自体をお金との交換無しに自分のものにしてしまう。これは犯罪行為として社会では許していない。元々のお金なりその物自体を所有している人のことが蔑ろにされるからだ。自分の持ち物を自分の許し無しに奪われたら、それこそ理不尽な堪らない行為だからだ。物だけではない。社会的な地位にしてもそうだ。自分の希望(欲望?)だけで欲しいものを手に入れることが認められ社会など存在しない。主体的に生きるということをは、社会規範に則った手段を選択しなければならないということなのだ。
 そんな主体的な生き方をするためには何が必要なのだろうか。まずは自分がそうありたい(なりたい)と思う自分を意識することから始めなければならないと思う。その意識が具体的であればあるほど、その実現のための手段も分かりやすくなる。その自分がありたいという存在自体がその場、その時代の社会的な規範に照らして不適合な存在であるならば、そこの規範自体を変えることも必要となる。実は世の中の先駆的な活動を行っている人のほとんどは、実は旧態依然の規範そのものを変えてしまっていることが多い。規範の多くは特定の関与者・時・空間・場面を想定している。そのいずれかが変われば規範自体も変わってしかるべきだが、例えば「あの時はこうしたから」とか、「世間ではこうしているから」という、既に存在している規範を流用していることが多いのだ。ただ、これこそが実は問題なのだ。異なる条件でも、それを当てはめることで上手くいくことだってある。しかし、こんなケースこそ例外だと思わなければならないのかもしれない。だから主体的に生きるために規範を変えるという選択肢をもつことも必要なのだと思う。規範を変えることは既にある規範を蔑ろにすることとは違う。既にある規範の意味を改めて考えて、現実に即した規範をつくり直すということだ。規範とは特定条件のもとで関与者に受け入れられたものでなければならない。個人が勝手に「これが規範だ」と宣言しても、それは規範ではない。また、あたかも社会が認めたかのごとく独善的なルールを押し付ける人も多いけれど、そんな人に振り回されていたら、とてもあるべき姿の自分になど成れるはずもない。
 主体的に生きるとは自分勝手に生きることとは違う。社会的に既に存在する、または新たに成立するであろう規範と照らして問題が無いことが大切なのだ。ここを認識して自分勝手に振舞えれば(笑)、主体的な自分の実現に一歩踏み出すことができたと言えるのではないだろうか。ただし、この「新たに成立するであろう規範」の構築は実は凄く難しい。しかし出来ないことではないはずだ。まずは事が起こった時に自分がどうありたいかを考える...ここから始めるということでしょうか。
(2002/03/31)