【社会】命の洗濯 長期の休暇を取ってどこかに旅行したり何かをすることを、よく「命の洗濯」と言います。「洗濯」って「洗い流す...」的な意味で捉えることが多いのですが、本当は「選択」なのではないかなぁと思うようになりました。しかも、そんな選択は、何か特別なことではなくて、日常的に行われる...というか行うべきものなのだとも考えます。 ちょっと大袈裟な言い方かもしれませんが、「生きることは選択し続けること」だと思います。普段の生活を振り返ってみましょう。まず朝、目覚まし時計が鳴ります。その音に気付いて「ああ、もう起きなくちゃ...」と思いつつも「まだ大丈夫かな..」などとウトウトしています。前の晩に「○時に起きて支度して、その後...と決めたにもかかわらず「まだ良い」と判断(選択)してている訳です。「おおおっと、午前中に大事な打合せがあったんだ」と思い出し、そそくさと寝床を抜け出します。「起きるぞ」と決断したのです。このまま寝てて打合せに遅刻したら大変だ...と判断して、「起きる」という行動を選択したわけです。起きてからまず何をしますか?。顔を洗う、朝食を摂る、新聞を読む...様々なことをしますよね。その度ごとに、つねに「今日はこれ」とか「何かをする」とか「しなし」とか...そんなことの連続です。そして出かける時に、「何を着ていこうか...」。毎日ワイシャツにネクタイ、スーツと基本的なパターンは決まっていたとしても、「何色のワイシャツ」か「どのネクタイか」は違っていたりしますよね。もう選択のオンパレードです。「常に何かを選び続けること」を求められています。 そんな毎日あれやこれやと選び続けていると、気付くと何の迷いも無く、同じ服、同じメニュー、同じ行動パターンに陥ってしまいます。選択することを放棄してしまいます。長期間の休暇を取るということは、当然普段と違う...非日常の生活パターンになります。すると、いつものメニューがそこにはありません。すなわち新しい「選択」をしなければならなくなるのです。自分ではこだわって選んでいるつもりが、実は惰性(習慣)以外の何物でもない行動しか取っていない...。そんな選択肢を洗い流す...すなわち「洗濯する」という訳です。 この「洗濯」は、自分を非日常空間に置かなくてはできないのでしょうか。そんなことはありませんよね。普段より30分早く目覚まし時計をセットしてみるとか、起き抜けに散歩してみるとか、そんな普段と違うことを一つでもしてみると、意外な発見があったりして、一日が違うリズムで過ごせるかもしれません。でも毎日の生活に何の不自由も感じないし、逆に満足しているのに、なぜ変える必要があるのかと思う方がいるかもしれません。しかし満足していたことを変えたらダメだと誰が決めたのでしょうか。もっと良くなるなるかもしれないじゃないですか。変えてみてもしダメなら、また違うことをやってみれば良いではありませんか。同じことをしていては、それ以上は決して良くなりませんよね。で、結局はまた同じ事を繰り返すようになってしまうかもしれませんが、大事なのは「あえてそうしている...その行為を選択している」という意識をもつことなのです。 自分で選んだのだから自分の責任ですよね。たとえ何か不都合が起きようが、いつもと同じことを敢えてしているあなたに責任があるのだから文句は言えないはずです。すると他人に対して文句が言えず、すると不思議なことにストレスも溜まらなくなってくるもののようです。 常に自分の行動を「自分が選んでいる」と自覚すること。今していることは、全て意味があることなのだと思うこと。どちらもとても難しいのですが、でもそんな意識を持つと、日常生活の行為一つ一つが、色々と意味のあることのように感じられて新鮮です。毎日同じ事をしていても、何の疑問ももたない...そんな日々の垢を落とすためにも「洗濯」も「選択」も、どちらも大切かなぁ...などと思う今日この頃です。 (1999/08/16) |